2023年12月31日日曜日

2023年12月第5週主日礼拝説教「二つの死の物語」  

 2023年12月第5週主日礼拝説教「二つの死の物語」   2023.12.31

旧約書:詩篇16編8節から11節
福音書:ヨハネによる福音書11章1節から16節
使徒書:テサロニケ人への第1の手紙4章13節から18節

 ヨハネによる福音書は11章は、それまでエルサレムを舞台として描かれていたイエス・キリスト様の物語が、場面を換えてエルサレムから離れてベタニヤというエルサレム近郊の地方に移ります。
 このベタニヤに、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」と言われるほどイエス・キリスト様と親しい関係にあったマルタとマリヤ、そしてその兄弟ラザロが住んでいました。そのマリヤとマルタとラザロの家族に大変な問題が起こって来ました。それは、ラザロが病気になり重篤な状態に陥ってしまっていたのです。そこで、マリヤとマルタはイエス・キリスト様に、そのことを知らせるために使いを送ります。
 その知らせを聞いたイエス・キリスト様は、ラザロのところへ出かけようとします。そのことが記されているのが、今日の説教の箇所の11章1節から16節です。

 ラザロが、思い病の床に伏し死にそうである。そのことを、マリヤとマルタはイエス・キリスト様にしらせるのですが、そこには、ラザロの病気を癒してほしいという願いがあったことは間違いありません。その願いが詰まった「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」という知らせを聞いたイエス・キリスト様は、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」と言われ、なおそこに二日滞在されたのちに、ラザロのもとに出かけたと聖書は記しています。
 この記述だけをみますと、イエス・キリスト様は、ラザロの病気はあまり重い病気ではないかのように思っておられたかのように受け取られます。しかし、必ずしもそうではなかった。むしろ、かなり重大なものであると考えておられたようです。ですから、先ほどの「この病気は死ぬほどのものではない」というイエス・キリスト様の言葉を、聖書協会共同訳は、「この病気は死で終わるものではない」と訳しています。少し、微妙ではありますがニュアンスが違います。そこで、新約聖書が書かれたもともとの言葉であるギリシャ語本文を直訳してみますと、「この病気は死と共にあるものではない」あるいは「この病気は死に向かうようなものではない」という感じになりますので、訳としては口語訳聖書の方がギリシャ語本文には近いようです。

 しかし、11節から14節のイエス・キリスト様とその弟子たちにやり取りを見てみますと、イエス・キリスト様は、このラザロの病気が死に関わる病気であったとしても、死で終わる者ではないということと思っておられたことがわかります。そこには、「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く」と言われイエス・キリスト様に、「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」と弟子たちは答える。するとイエス・キリスト様は、「ラザロは死んだのだ」とあからさまに言われたというやりとりがある。
 このやり取りにおいて、イエス・キリスト様は、明らかにラザロの死というものを意識しています。いえ認知しているとさえ言って良いでしょう。にもかかわらず、イエス・キリスト様は、「この病気は死に向かうようなものではない」とか「ラザロは眠っているのだ」と言われるのです。
 そこには、二つの死の理解があります。一つは肉体の死です。みなさん、私たちは、この体においては、必ず死を経験する。あたりませのことですが、人は生まれたならば必ず死ぬのです。

 実は、つい数週間前、私は私より一回り若い友人を失いました。その時私は、私の今年一年を感じ一文字で表すとすれば、それは「死」だなと思わされた。今年になって、その枝牧師の父が死に、教会の大切な神の家族である黒岩昭生さんが死に、私よりも若い友人が死んでしまった。それだけではない学恩がある二人の教授やお世話になった恩ある先輩牧師も亡くなった。それは寂しいものです。そして、イエス・キリスト様もまた愛する友人のラザロが死んだ。
 なのに、イエス・キリスト様は、ラザロの病を、「死に至る病である」とは言わず「死には至らない病であり」と言い、死んでいるラザロを「眠っているだけだ」と言う。そこには、二つ目の死が見据えられている。それは、神様との関係における死です。イエス・キリスト様は、その神様との関係において、ラザロは死ぬことはない。いや生きるのだというのです。

 ラザロの肉体は病によって確かに死にました。しかし、その病は、神様との関係において、ラザロを、そして神を信じる私たちを死に至らせることはできないのです。そういった意味で、確かに、ラザロの病気は死に至るものでありません。むしろ、ラザロの体を肉体の死に至らせたとしても、その肉体の死は、肉体の死で終るものではないのです。そう、死で終わるのではなく、その死の出来事から希望が始まっていく。この病気は死で終わるものではなく、そこから希望の出来事が始まっていく。それは死から再び起き上がる復活の希望が始まるのです。
 いや、だからと言って、私たちは肉体の死というものを軽んじては善いわけがありません。基本的に聖書は、私たちの命を「生きる」ということを大切にしています。ですから、命を軽んじてはいけません。イエス・キリスト様自身、ラザロのところに行くという決心をするまでに二日の日を要しているのです。

 このイエス・キリスト様が、ラザロが病気だと聞いてなお二日間滞在していたということについては、イエス・キリスト様は、ラザロが死んで四日目に到着するためにあえて二日間、同じ場所に滞在していたのだという解釈がなされることがあります。
 確かに、結果から遡ってそのように解釈することの可能性もあります。しかし、文脈から、イエス・キリスト様がユダヤのベタニヤに行くことは、イエス・キリスト様に敵対する者たちに捕らえられ石打ちの刑で殺される危険があるのです。だから二日間もそこに大差在していた。それは、その危険を押し切ってラザロのもとに行こうという決心をするための時間であったと考えられる。ひょっとしたら、弟子たちの中に、ラザロのところに行くことを反対している者がいたのかもしれません。
 しかし、それでもイエス・キリスト様はラザロのもとに行くのです。しかし、慎重に万全の注意を払ってです。その万全の注意を払う意図が「一日には十二時間あるではないか。昼間あるけば、人はつまずくことはない。この世の光を見ているからである。しかし、夜あるけば、つまずく。その人のうちに、光がないからである」という言葉に見ることができます。そこには、夜という危険な時間帯ではなく、安全な時間帯を選んでいくのだという意図がくみ取れる。

 もちろん、このイエス・キリスト様の言葉についても、イエス・キリスト様が十字架の受難という苦しみの時が来るまでは、神様の守りがあるのだという意味であるという解釈があることも知っています。しかし、デドモと呼ばれているトマスが、16節で仲間の弟子たちに「わたしたちも行って、先生と一緒に死のうではないか」というほど危険な旅なのです。
 そのような中で、危険を冒さずに、気をつけて昼間の間だけ歩けば大丈夫だというのです。それは、信仰があれば大丈夫なんてことは言わず、決して無茶をしない、命を危険にさらすようなことはしないという決意でもあります。

 確かに、肉体の死は神と神を信じる者とに間にある関係を立つことはできません。仮に肉体の死を迎えることがあっても、神を信じて生きた者は、復活の希望の内に置かれている。だからこそ先ほどお読みしたテサロニケ人への第一手紙4章13節から18節で、パウロは

 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。

というのです。ここには命の希望がある。

 みなさん、イエス・キリスト様が十字架に架けられ、三日目に死人の内からよみがえり、天に昇られた後の教会は、すぐにでもイエス・キリスト様が再び天から戻ってこられ、この世界に神の王国を完成させてくださると信じ待ち望んでいました。
 しかし、イエス・キリスト様が再び来られるその時は、彼らが期待していたよりもずっと後であり、神を信じる仲間たちの中でも死んでいく者も出てくるようになった。そのような中で、いったい死んでしまった人たちはどうなるのだろうかという不安が神の民の中に起こってきたのです。このテサロニケ人への第一の手紙は、そのような背景のもとで書かれたものです

 その時にパウロは、「心配するな。イエス・キリスト様が死から蘇られたように、神を信じ生きたものは、たとえ肉体が死んだとしても、命を与える神との関係が途絶えてしまったわけではないのだから、イエス・キリスト様が再びこの世界に来られるときに、彼らもまた甦るのだ」と言って、テサロニケにいるキリスト者を励ましたのです。

 まさに、「肉体の死は、死で終わるものではない。神の命が与えられている者は、死んでも生きるのだ。だから、恐れることなく、今の時を大切に生きろ」とパウロは言うのです。ここにも、「生きよ」という聖書のメッセージがある。また先ほどお読みした詩篇16編もそうです。そこでは

 あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。

と言われている。この詩篇の言葉には、肉体においては死ぬべき運命にある人間の現実が見据えられています。けれども、神を信じる神の民は、その肉体の死という現実を超えて、神の民として生きる者とされているのです。だから神は、神を信じる者に命の道を示される。そしてその命の道を生きて行きなさいというのです。

 みなさん、私たちは神の前に行かされている者です。生かされているから、生きるのです。今をしっかりと生きるのです。イエス・キリスト様は、私たちに神の命を与えてくださっているのです。確かに現実には、私たちの肉体は死というものを経験します。その意味で、私たちの肉体は、肉体の死に向かう病の中にあります。
 しかし、その病は決して死で終わる病ではない。イエス・キリストがもたらす命が私たちに与えられているのです。そのことを覚え、私たちに命を与えるイエス・キリスト様のことを、静かに思い廻らしたいと思います。静まりの時を持ちます。

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