2023年12月29日金曜日

詩篇に学ぼう/詩篇46篇

詩篇46篇

1:指揮者によって。コラの子の詩。アラモト調。歌。
2:神は我らの逃れ場、我らの力。苦難の時の傍らの助け。
3:それゆえ私たちは恐れない 地が揺らぎ 山々が崩れ落ち、海の中に移るとも。
4:その水が騒ぎ、沸き返り その高ぶる様に山々が震えるとも。〔セラ
5:川とその流れは神の都に いと高き方の聖なる住まいに喜びを与える。
6:神はその中におられ、都が揺らぐことはない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
7:すべての民は騒ぎ、もろもろの王国は揺らぐ。神が声を出されると、地は溶け去る。
8:万軍の主は私たちと共に。ヤコブの神は我らの砦。〔セラ
9:来て、主の業を仰ぎ見よ。主は驚くべきことをこの地に行われる。
10:地の果てまで、戦いをやめさせ 弓を砕き、槍を折り、戦車を焼き払われる。
11:「静まれ、私こそが神であると知れ。国々に崇められ、全地において崇められる。」
12:万軍の主は私たちと共に。ヤコブの神は我らの砦。〔セラ

この詩の基調は信頼。その奏でるメロディーは平和です。
2節の「神は我らの逃れ場」と言う言葉が、神に対する信頼のベースラインとなっていると言えるでしょう。しかし、考えてみると「逃れの場」、口語訳聖書ですと「避け所」となっていますが、この言葉が口に上ってくると言うことは、「逃れの場」に逃げ込まなければならない状況が意識されていると言うことです。それは決して心安らかな状況ではありません。しかし、ひとたび「逃れの場」である神様の懐に飛び込むやいなや、たとい「地が揺らぎ 山々が崩れ落ち、海の中に移るとも」恐れないという揺るがない平安が心に満ちてくるというのです。つまりそれは、神という「逃れの場」には、もはや逃げ込まなければならない状況を意識する必要がないということです。なぜならば神の平和が魂を覆っているかららなのです。

しかし、我々は「この世」にある限り神の懐の中に身を潜め続けるわけにはいきません。我々は「この世」に実在する実在者だからです。そして、「この世」は神に敵対する存在として「わたしたち」の前に立っています。もちろん、神様はこの世界の創造者であり主権者であることに間違いはありません。しかし、この神の世界を支配する支配の原理である「この世」は神に敵対しているのです。だから、この世界に起こる様々な人の営みの中にすべからく神の支配が及んでいるというのは幻想であると言わざるを得ません。むしろ現実は、神に敵対する「この世」の世界の中に、教会というささやかな神の支配する世界が存在していると言うのが、実際であると言えるでしょう。かつて、キリスト教一体化社会と呼ばれたヨーロッパ社会であったとしても、地球的な規模で見れば、未だささやかな神の支配でしかなく、そのキリスト教一体化社会の中ですら「この世」が、根深く入り込んでいたのです。

だとすれば、この神の平和に心安んじていられる魂の平安は、「この世」と戦う者にあってひとときの休息の時にすぎないのでしょうか。否、断じて否です。なぜならば、この「この世」との戦いは、確実に勝利に終わり、神の平和が魂を覆うだけでなく、我々が実在する世界を覆うときが来るからです。

詩人が5節6節で詠う「川とその流れは神の都に いと高き方の聖なる住まいに喜びを与える。神はその中におられ、都が揺らぐことはない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる」という言葉は、どこか終末論的響きがあります。今、この世界を治める都は、「この世」によって支配されています。そこには、命の清水はありません。あるのは死への恐れです。しかし、そこに、神の聖なるすまい、神の神殿が建てられるならば、命を潤す清水が川となって注ぎ込み、死と言う現実に向き合い絶望の中で生きている者に希望の喜びがもたらされるのです。まさにそのような勝利の出来事が訪れるという、そんな終末的な響きが、この言葉の中にあります。

その終末的な喜びの出来事が必ず来るのです。主なる神が「驚くべきことをこの地に行われる」からです。この神が地になされた「驚くべきこと」を新共同訳は「地を圧倒した」と訳し、新改訳は「地に荒廃をもたらした」と訳しますが、要はこの地を支配する支配原理である「この世」を完全に打ち破ったと言うことです。そしてその勝利は10節の「地の果てまで、戦いをやめさせ 弓を砕き、槍を折り、戦車を焼き払われる」という言葉が担保するのです。

このとき、神の平和は我々の魂だけを覆うのではありません。我々がこの世にあって存在する全存在を覆うのです。だからこそ、「わたしたち」は「わたしたち」が実在するこの世界にあって、静まって神の神たるを知ることが出来るのです。この神の完全な勝利が、既にイエス・キリストによってもたらされていまづ。だから、神の平和は、神の懐に中にある一時的に魂を覆うものではありません。キリストの完全な勝利の故に、希望の内に私達の全存在を覆っているのです。

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