私の知り合いに、将来はお医者さんになりたいと一生懸命頑張っている中学校一年生の女の子がいました。その後、その子と会う機会がなくなりましたが、無事に医学部に進学した医学生となったと聞きました。それも数年前のことですので、今では医師として働いているのではないかと思います。
実は、彼女のお父さんは、仕事中の事故で、いわゆる植物状態になってしまいました。きっと、お父さんを直してあげたいという気持ちから、医者を志したのだろうと思います。ですから私は、彼女はきっといい医者になっているだろうなと思っています。彼女は、病や怪我が、どんなに深く人を悲しませ、心に痛みを与えるかをよく知っているからです。ですから、彼女も、患者さんだけではなく、その家族の方の悲しみや苦しみを汲み取って治療できるお医者さんになっているだろうと思うのです。
「わたしたち」人間は、そうやって慰め合ったり励まし合ったりすることができる生き物なんですね。人間って素晴らしいと思います。そのように、慰め合ったり励まし合ったりすることができるのは、神様が、「わたしたち」人間を神様に似たものとして作って下さったからです。神様の内には、「わたしたち」を慰め励ます深い愛が満ちあふれています。その愛を、人間を創造なされたときに、神様は私たちの心の中に注ぎ込んで下さったのです。だから「わたしたち」は、互いに慰め合い励まし合うことができるのです。慰めと励ましの源は神様の愛にあるのです。
ところが、そんな「わたしたち」であったとしても、人間の慰めや励ましには限界があります。いえ限界があるだけではありません。本来は慰め合い励まし合うべき人間が、逆に激しく憎しみ合ったり傷つけ合ったりするのも現実です。そのように、せっかく神様によって素晴らしい存在に創られたはずの「わたしたち」なのに、その素晴らしさとは全く正反対の醜い生き方をしてしまっていることもあるのです。それは、神様が素晴らしい存在に創って下さったのに、「わたしたち」の内側にある欲望が、神様に背を向けさせ、自分の欲に従って生きるようにさせているからです。
本来、人間は神様が導く導きに従って生きる者として創造されています。人間の理性というものは、本当は「わたしたち」がより善い人格を形成し、慰め合ったり励まし合ったりする愛に満ちた生き方に至らせるために機能するべきものでした。その理性は、しばしば良心となって「わたしたち」の心に働きかけます。しかし、「わたしたち」が、「わたしたち」の内に在る理性の声に耳を傾けず、「わたしたち」の欲望の従い生きる時に、神様が与えてくださった「わたしたち」に内に在るその素晴らしさとは全く正反対の醜い生き方へと「わたしたち」人間を導き、神様とは無関係な生き方をするものとしてしまうのです
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