2023年10月11日水曜日

門と羊飼いは矛盾しない

 

2310月第三主日礼拝説教「門と羊飼いは矛盾しない」              2023.10.15

旧約書:エレミヤ書23章1節から8節
福音書:ヨハネによる福音書10章1節から19節

使徒書:ペテロ第一の手紙2章21節から25節

 

 今朝の礼拝説教の箇所はヨハネによる福音書10章1節から18節までにある、イエス・キリスト様が語られた「『良い羊飼い』の譬え」の箇所です。
 そこで、このイエス・キリスト様の譬え話を聞いていた人たちは、いったい誰なのかについては、19節を見ればわかります。そこには、この譬え話をめぐって「ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた」とあります。

 「また」と言うのですから、これ以前にも対立があった。それは、この箇所の直前の9章で、生まれつき目の見えない人を、イエス・キリスト様が安息日にお癒しになった出来事をめぐって起こった論争です。9章16節にはこうあります。

   そこで、あるパリサイ人たちが言った、「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」。しかし、ほかの人々は言った、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。そして彼らの間に分争が生じた。

つまり、この10章1節から18節にあるたとえ話を聞き、論争を始めたのは、あの生まれつき目の見えない人の癒しをめぐって論争したパリサイ派の人々であろうと思われます。ですから、「このよき羊飼い」の譬え話は9章から続く一連の物語でありと言えます。
 その冒頭の言葉は、非常に挑戦的な言葉です。そこにおいてイエス・キリスト様は、「よくよく言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである」と言われる。

羊飼いは、囲いの中に入れている羊の群れを連れて、イスラエルの荒野にわずかに生えている牧草地に連れて行き、そこで牧草を食べさせ、羊を養い育てます。そのために、羊の群れが入れられている囲いの門のところにやって来て、門番に門を開けて入れてもらい、羊を導き出すのです。とうぜん、門番も、この羊飼いは、確かにこの羊を飼うために雇われた羊飼いであると認めている。
  しかし、門を通らないで入ってくる者がいると言うのです。当然、それは羊飼いではない。盗人であり、強盗だというのです。それは、羊を奪うものではあっても、羊を導き、養い育てるものではありません。ですから、門番が門を通してくれるはずもない。だから、門以外のところから囲いを乗り越えて入ってくるのです。


 このとき、イエス・キリスト様が、「盗人であり、強盗である」と言った人々は、まさにイエス・キリスト様の目の前にいるパリサイ派の人々を念頭に置いていたであろうことは想像に難くありません。だから、この1節2節の言葉は挑戦的なのです。
 ともうしますのも、パリサイ派と言う人々は、自分達こそが旧約聖書にある教えを熟知しており、その教えに従って敬虔な生き方をしており、イスラエルの民を信仰的に導くものであると自負していたからです。そのパリサイ派の人々に向かって、たとえ話を通してですが、あなた方はイスラエルの民を導く指導者ではないというのですから、これは挑戦的な言葉以外の何ものでもありません。
 そして、イスラエルの民、すなわち神の民を導く者は、あなた方ではない。わたしなのだ。わたしこそがよき羊飼いなのだと高らかに宣言するのです。もっとも、イエス・キリスト様の宣言の言葉には、若干のブレが見られます。と申しますのも、イエス・キリスト様は、節で「私は門であるといい、節では「私は世K羊飼いだと言っているからです。

 それに対して、1節から5節においては、羊飼いは門から入るといっていますので、イエス・キリスト様が門であれば、門を通ってはいる羊飼いはイエス・キリスト様ではないと言うことになります。そのようなわけで節から節で言われている羊飼いというのは、弟子たちの事ではないかと言われる注解者の方もおられるぐらいです。
 しかし、1節から5節と7節から18節の譬え話は、密接に関係していますので、節から節でイエス・キリスト様が「私は門である」と言いながらも、同時に「私は良き羊飼いである」と言われるのであれば、羊飼いというのは、一貫してイエス・キリスト様のことを指していると考える方が良いと思われます。
 だとすれば、イエス・キリスト様は門であり、その門を通って入る羊飼いであるということはどう受け止めればよいのでしょうか。私も正直、頭を抱え得てしまいました。しかし、そこでちょっとイエス・キリスト様がこの世界に来られた目的に立ち返って考えてみたのです。 

イエス・キリスト様がこの世界に来られた目的は何か。みなさん、このヨハネによる福音書の冒頭において、この福音書の著者であるヨハネは、イエス・キリスト様がこの世界に来られたのは、闇に覆われたこの世界に光をもたらすためであると述べています。それを別の言葉で言うならば、この世界に神の王国を建て上げ、それを広めていくためであると言うことができます
 神の王国とは、神様の恵みと愛によって支配されている世界です。その神の王国をこの世界にもたらすことが目的であるということは、この世界にはまだ神の恵みと愛が支配する神の王国は打ち建てられていないと言うことです。だから、まだ、この世界は暗闇なのです。そして、その神の王国の民はいないのです。

しかし、この神の王国は、もともとはイエス・キリスト様がお生まれになる以前は、イスラエルの民によって建て上げられるべきものでした。そのために、イスラエルの民は神の選びの民として選ばれたのです。しかし、彼らもま た、この世という闇の中に飲み込まれてしまった。
 そこに、神ご自身が、その神の一人子であるイエス・キリスト様を人としてこの世界に送り出し、神の王国をお立てになられた。それがキリストの教会となってこの世界に広がっているのです。その神の王国である教会に加えられていくときに、私たちは洗礼を受ける。それは洗礼が、私たちとイエス・キリストを一つに結び合わせる神の業であり、また私たちがイエスキリスト様と一つに結ばれている証しなのです。
 その意味で、イエス・キリスト様はこの世界に神の恵みと愛が支配する神の王国をお建てになり、それが教会と言う形で、今、全世界に広がっている。その教会の門としておられるのがイエス・キリスト様と言うお方なのです。ですから、イエス・キリスト様というお方を通らなければ、教会という神の民の交わりの中に入っていくことはできませんし、教会との関わりを持っておられる方々は、意識するかしないかに関わらず、このイエス・キリスト様というお方を通って、その交わりに加えられているのです。

しかし同時に、私たちは教会という交わりの中だけで生きているのではありません。現実の生活の多くの場は、「この世」という教会の外の世界にある。そこでは、神の愛や恵みがおよばない厳しい現実があります。私たちは、そのような世界に、この神の愛と恵みが支配する神の王国であり教会から派遣され出て行かなければならないのです。
 なぜならば、「この世」という世界には、まだイエス・キリスト様を知らない人々が多くおり、教会という神の愛と恵みを知らない世界と関わりのない人々が多くいるからです。そしてそれらの人々の中には、多くの「この世」という世界で、傷つき、悲しみ、苦しむと画いる。その人たちに、綿日立は「よく羊飼い」の存在を証しするものなのです。
 だからこそ、礼拝の最後に祝祷をするのです。祝祷はこの世界に派遣されていくみなさんに、神の祝福があることを願い求める祈りであると同時に、神が祝福を与えてくださるということを宣言する言葉でもあります。 

 この世界に派遣されていく私たちに、神様が祝福を宣言してくださる。それは、イエス・キリスト様が、私たちが派遣されていく先でも共にいてくださり、私たちを支え導いてくださっている。その意味ではイエス・キリスト様が私たちの羊飼いとなって、「この世」という世界で生きる私たちと共生きてくださる。そして時には命を投げ出すようにして守ってくださる。だから祝祷は、神の祝福の宣言であり、祝祷の中に、「善き羊飼い」であるイエス・キリスト様のお姿が現れているのです。ですから、私たちは、この「善き羊飼い」であるイエス・キリスト様の声を聞き生きて行くことが大切なのです。そして、この世界の中で疲れ、傷つき、悲しみながら、もう一度、イエス・キリスト様という門を通って、教会というこの世界における神の王国に帰ってき、礼拝という場で神の慰めと癒しをいただいて、またこの世界へ派遣されて行く。そう考えますと、イエス・キリスト様がもんであり、かつ「善き羊飼い」であるということは、全く矛盾したことではないと言えるのではないか。私にはそう思えるのです。

 

 先ほど、私は旧約聖書のエレミヤ書23章のお言葉をお読みしましたが、エレミヤは、イスラエルの国がバビロン帝国に滅ぼされ、イスラエルの民がバビロンに取れていかれるという、まさに国が亡びる危機的な時期に預言者として活躍した人物です。
 エレミヤは神からの信託を受け、その当時のイスラエルの民の指導者たちに、「あなた方は牧場まきばの羊を滅ぼし散らす悪しき羊飼いであって災いだ」と鋭く非難します。そのうえで「散らされたイスラエルの民を、再び集め、王となって公正と正義を行う王を立て、彼らを養い育てる新しい「善い羊飼い」をこの世界に送るというのです。

 このエレミヤの言葉は、イスラエルの民が、ローマ帝国に支配され苦しみの中に置かれている時代に現れたイエス・キリスト様のお姿と重なり合うものです。イエス・キリスト様は、当時のイスラエルの民の心を養う霊の指導者であると自負しているパリサイ派の人々に向かい、あなた方は、神の民の心を養い育てる羊飼いとしてふさわしくない。私こそが、羊である神の民のために命を投げ出し、これを養い育てる「善き羊飼いだ」と断言なさるのです。
 その意味で、あのエレミヤ書23章の言葉が、ここで繰り返されている。エレミヤが語った神の救いの物語が、このヨハネによる福音書の10章でイエス・キリスト様において語り直されているのです。
 だからこそ、ペテロ第一の手紙の著者は、その手紙の2章25節で、ポントやカッパドキヤ、アジアやビテニヤという今日のトルコの属する小アジア半島にすむクリスチャンたちに「あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである」というのです。

 もちろん、この「魂の牧者であり監督であるかた」とはイエス・キリスト様のことです。イエス・キリスト様は、十字架に架かって命を投げ出され死なれることで、この罪と死が支配する世界の中で生きている私たちを掬い出し、その十字架の上に釘付けされた傷によって、私たちを癒してくださったのです。
 そしてそのお方が私たちを養い育て導いてくださっている。2章21節において「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」と言われているのは、まさに、私たちの牧者として、自らの生き方を通して、神の民がいかに生きていけば良いのかをイエス・キリスト様は教えてくださるのだ」というのです。

 みなさん。そのイエス・キリスト様は、今日も私たちの「善き羊飼い」となって私たちを導き、養い育ててくださっています。そして、この世界に現れ出た神の国である教会で、みなさんを癒し、慰め、支えてくださっています。そのことを、しっかりと心に刻みながら、イエス・キリスト様が私たちの牧者であるということを、心を静め思い廻らせたいと思います。しばらく静まりの時を持ちます。

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