昔、ドイツのカントという哲学者が『純粋理性批判』という本で、人間には人間の知性で知ることのできることと、人間の知性では知ることのできないものとの二つがあるということを明らかにしました。
カントは、知りうることのできるものを後験的なものといい、知ることのできないものを先験的なものと呼びました。後験的なものは、生まれた後から経験することで理解し、認識することができるものです。しかし、先験的なものは生まれたときから人間の心に刻み込まれている概念で、人間の知性の限界を超えた先にあるものです。例えば善とか美とか真や愛といったものです。そして神もそれに相当します。神は人間の知性で知ることはできないお方なのです。
同様に善や美や真や愛といったものは、それ自体が何かはわかりません。確かになんとなく感覚としてはわかります。というのも、善いもの、美しいもの、真実なもの、より愛おしいもの、あるいはより愛されることといったように、なにかを通してそれが存在することは感覚的(直観的)にその存在を捕らえることができるからです。しかし、善それ自体は、美それ自体、真実それ自体、相それ自体が何であるかとなると、私たちは説明することはできません、それが何であるかを知ることはできないのです。ただ、この世界にあるものや現象を通して、善や美や真といったものを感じ取るだけなのです。
同時に、私たちはこの世界のあらゆる物事の中に、善や美や真といったものを求めます。より善いもの、より美しいもの、より真実なものが存在し、それがこの世界の中に現れ出ることを、そしてそれが「わたし」の人生の中に訪れることを求めるのです。
実は、この善や美や真というものは、神様の御性質に属するものなのです。それで、そのような神様の御性質のことを神の属性と言います。その神の属性を私たちが「わたし」の人生に訪れることをもとめるのは、私たち人間は、生まれたときから神を求めて生きる者とし生れてきているからです。私たちは、私たちの人生に神が関わってくださることを願い求めて生きる存在なのです。しかしそれが何であるかは、私たちの思考の及ばないことなのです。そのことを、私の友人の岩本遠億牧師も、「思考の及ばないところ」という3分弱の短いメッセージで語っています。岩本牧師のメッセージは下記のアドレスをクリックしてくださり、新しく開かれた「366日の元気の出る聖書の言葉」のホームページに行き、▶のマークを再度クリックしてくだされば聴くことができます。このメッセージは、岩本牧師の著書『366日の元気の出る聖書の言葉』にあることを岩本牧師自身が音声として伝えたものですが、岩本牧師にご承認いただいてここにリンクしています。
2023年10月27日金曜日
知性の限界
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