2023年10月第五主日宗教改革記念聖餐礼拝「救われるための努力」
旧約書:創世記17章1節から2節
福音書:マルコによる福音書12章28節から34節
使徒書:ピリピ人への手紙4章8節から14節
10月31日というと巷ではハロウィンですが、一般的には11月の第一主日に、多くの教会、特にルター派の教会では宗教改革記念礼拝を行っています。そのように宗教改革記念礼拝を行うのは、言うまでもありませんが、私たちの教会がプロテスタントに属するからです。
宗教改革は、1517年の10月31日付けで、宗教改革の祖でありマルティン・ルターが95ヶ条の提言というものを公に現したことをきっかけとして始まっりました。だからそのことを記念して、11月の第一主日に宗教改革記念礼拝を行うのです
この95ヶ条の提題というのは、正式には「贖宥(しょくゆう)の効力を明らかにするための討論」と言います。この贖宥というものは、カトリック教会の罪の赦しの秘跡に関わるものです。罪の赦し秘跡というのは、昔風の表現で言えば懺悔(ざんげ)の秘跡と言った言い方になります
カトリック教会における罪の理解は、大きく分けて原罪と自罪の二つに分かれます。原罪は、アダムとエヴァが犯した罪が先祖伝来の罪として私たちの内に宿っているというものです。それゆえに、本来私たちが持っているはずの神の前に正しいことを行う義なる性質、これを原義と呼ぶのですが、その原義が損なわれてしまっているというのです。
ですから、カトリック教会が考える原罪はすべての人が生まれながら共通して持っている罪です。それに対して、自罪とは、ひとり一人の人間か、個々に犯してしまった罪です。その自罪が大罪と小罪とに分けられる。その大罪とは、モーセの十戒に記されている事柄や、七つの大罪といわれる事柄、すなわち傲慢・強欲・嫉妬・憤怒・色欲・暴食・怠惰といったものを、これをすれば大罪になるとわかったうえで、それを意図的に行った場合に、大罪となります。
これら大罪は新約聖書でいう「死に至る罪」として、罪の赦しの秘跡で、神父さんにその大罪を告白し罪を犯したことを悔いていることを伝えて、神父さんから「あなたの罪は許された」という罪の赦しの宣言を受け、その罪を償うために、断食をしたり、決められた祈りの言葉を何回も唱えると言った償いのための行為をするのです。これが赦しの秘跡というものです。
それに対して、小罪とは、意識しないで犯した罪や、非常に些細な道徳的な過ちのことであって、これらは「死に至らない罪」として赦しの秘跡の対象にはなりません。
そこで先ほどの贖宥(しょくゆう)ですが、贖宥(しょくゆう)とは、先ほど申し上げた罪の赦しの秘跡の中の償(つぐな)いのため行為です。カトリック教会では、大罪の中にも重い軽いがあり、それぞれの大罪に対して償わなければならない内容が決められています。これをカズストリーというのですが、ルターは、このような償罪(しょうざい)の行為は、罪の赦しにおいて必要はないのではないかと言ったのです。それが、あのルターの95ヶ条の提題と呼ばれるものなのです。
人は、罪の赦しのために償いなど必要ない。イエス・キリスト様の十字架の死によって、もはや罪の償いは完全に成し遂げられている。だとすれば、その恵みを受け取るだけで十分なのではないか。ルターはそう言ったのです。それを、プロテスタントの教会は信仰義認と言います。
私たちは、私たちの犯した罪や過ちに対して、何の償いを求められることなく、ただ恵みによって、その罪が赦されるというルターの主張そのこと自体は、真にもってそうだと思います。少なくとも、聖書においては、イエス・キリスト様の十字架の業は、私たちにとって完全な救いの業です。その意味で、すべてが終わったのです。
ところが聖書は、救いについて実に奇妙な言い方をします。それは、特にパウロという人の書簡の中に見ることができます。パウロという人は、救いというのを、「救われた」という過去形で語りつつ「救われている」という現在形でも語り、そして「やがて救われるであろう」という未来形でも語っているのです。
先ほどお読みしたピリピ人への手紙4章8節から14節などは、まさにその「やがて救われるであろう」ということ、未来形の救いが言われている箇所であると言えるでしょう。この箇所において、手紙の著者であるパウロは、
13:兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、14:目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
と言っています。このパウロが「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ」得ようとしている「キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与」とは、文脈から読み取りと復活の出来事です。パウロは、救いの完成である完全な救いは、死から蘇る復活の出来事なのです。
みなさん、パウロが、このピリピ人への手紙を書いていた時、彼は自分の死期が近いことを感じていました。その自分の死を意識する中で、救いの完成としての復活の出来事に希望を抱いていたのです。そして、「なんとかして死人のうちからの復活に達した」と願い、それを追い求めているというのです。しかしパウロは、同時に「そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである」というのです。
このキリスト・イエスによって捕らえられているということは、パウロはもう既に救われているということです。にもかかわらず、彼は、救いの完成を目指して、それを追い求めているというのです。つまり、彼は救いの完成である復活の出来事を求めて、今、努力し頑張っているというのです。
みなさん、イエス・キリスト様を信じる時、私たちに復活の出来事は約束されている確実な未来です。そうです。イエス・キリスト様の約束を信じていれば、私たちは確実に復活の恵みに与ることができる。ありがたいですね。にもかかわらず、パウロは救いの完成を目指して頑張っている。これは一体どういうことか。パウロは言います。
それは、わたしがキリストを得るためであり、9:律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。
「キリストの内に自分を見いだすようになる」、それはイエス・キリスト様のご人格の中に実を結んだ、錬られた品性であり、十字架の死に至るまで従順に歩まれたイエス・キリスト様の神を信じる信仰です。その品性と信仰を、今、生きているこのときの身に着けたいと願い、今を、精いっぱい努力して信仰を生きているのです。
みなさん、信仰とは信じるものです。しかし、信じることは、信じたということで終わるものではありません。今、私たちがイエス・キリスト様に倣い、イエス・キリスト様のように、神を愛し、隣人を自分自身のように愛するものとなるために生きて行くことが信仰なのです。キリスト教における救いとは、イエス・キリスト様を信じる者となったからこそ、イエス・キリスト様のように生きることなのです。それこそが、旧約聖書に記された律法の精神を生き、律法が完成することなのです。
もちろん、私たちは完全にイエス・キリスト様のようになることはできません。しかしだからと言ってあきらめるのではなく、少しでも、神を愛し、隣人を自分自身のように愛するものとなるように今を生き、やがて私たちが死から蘇り、復活するときに完成することを待ち望むのです。
ルターが言うように、私たちが神を信じ救われるということは、ただ神の一方的な恵みによるものです。この神の恵みなしに私たちはかみを信じることはできません。そしてその神の恵みによって、私たちは主イエス・キリスト様に捕らえられ、このお方を知る絶大な知識を得ました。だからこそ、今、信仰を生き、イエス・キリスト様に似たものとなるという目標を目指し努めるのです。
先ほどお読みしました。「汝わが前に歩み全かれ」と言う旧約聖書創世記17章2節の言葉は、旧約聖書の時代にイスラエルの民だけに語られた言葉ではありません。今日にあっても、神を信じる神の民に対して語られている神の言葉であり、私たちにも語られているのです。
みなさん、聖書は一貫して、人は神の造られたものとして、神の前で生きることを求められています。そしてそれは神を愛し、隣人を自分自身のように愛するもののとして生きるということなのです。
もちろん、そうはいっても現実に私たちが生きている場は、具体的な文化や社会環境、そして歴史においれ、世界中の様々な地域で違っています。さらには聖書の書かれた時代と今の時代という時間的差異もあります。ですから、聖書を読んでいても、聖書が語っていることがピンとこないことも少なくありません。だからこそ、私たちの意識をイエス・キリスト様に集中することが大事です。そして、イエス・キリスト様ならばどうするかに思いを馳せて、その思い浮かべたイエス・キリスト様に倣って生きればよいのです。
そのようにして、私たちがキリストに倣いつつ生きて行くことが、神の救いの中で、救いの完成に向かって、今を生きて行く生き方を歩んでいくことなのです。
宗教改革は救いにおける神様の恵みということを強調しました。それは決して間違っていません。正しいことであったと私も思います。しかし、それが「恵みのみ」という言葉で、人間の努力が切り捨てられていった点は反省しなければならないと思います。
神の救いの業は、単に私たちの罪を赦すという赦しの業を集約して語られるのではないのです。もちろん、確かに救いには罪の赦しという側面もある。しかし同時に神の救いの業は、神様が人間を創造した目的にかなって、人が人として人間形成なされていくことであるのです。そこにおいては、神様がなされる神の業と同時に、私たちもまた神の業に参与し、神と共に働くのです。
この私たちが神と共に働くものとされたということに感謝したいと思います。だって凄いことですよ。神様と私が、神様とあなたが、一緒の働くことができるのです。神の恵みというならば、それ以上の恵みはない。そのことを心に思いながら、しばらく心を静め、声も音もたてず、私たちを神と共に働く者としてくださった神を想い、神と共に働く者の模範としてこの世界に来てくださったイエス・キリスト様のことを思い廻らしたいと思います。静まりの時を持ちます。
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