2023年10月14日土曜日

イスラエルとハマスとの衝突に対して、教会の皆さんにあてた手紙

 イスラエルとハマスの衝突に対して、教会の皆さんにあてた手紙(一部改訂)

これは、私が毎週教会の皆さん宛にお送りしている牧会レターに、今週、書き記した文章です。ブログ用に一部改訂したものをここに記載します。以下、その文章です。

教会の皆さんへ

 私は、毎月、教会に隣接する二つの保育園に行き、子供たちにお話します。お話を聞く子どもたちの目はキラキラ輝いており、話をする側も、とても嬉しい気持ちにさせてくれます。子供たちが、元気に、そして生き生きとしていることはとても嬉しいことです。もうじき運動会があります。きっと子供たちの元気な声が響き渡るでしょう。また、クリスマスが近づいてくると、子供たちのクリスマスの歌も聞こえてくると思います。それは、とても喜ばしいことです。

 しかし、そのような子どもたちの顔から笑顔を奪い去っていくような事態もあります。ロシアがウクライナに侵攻し、戦争が始まったのは、2022年の2月でした。私はその時、憤りと怒りを感じました。1年半以上たっても、未だその戦争に終わりが訪れる兆しすら見えません。そのような中、今度は、パレスティナのガザ地区に拠点を置き、ガザ地区を実効支配するハマスがスラエルを攻撃し、こちらも戦争状態になりました。

 今は、様々なメディアが、その戦争の状況を報道してくれますので、私たちは生々しい戦争の実態を、画面を通して知ることができます。そこには、戦争にまきこまれて 負傷した一般市民や、更に命を落とした家族を嘆き悲しむ人の姿があります。その中には、小さな子供の姿もあります。
 そのような、人々の嘆きや苦しみを見ると、私たちの心に怒りと憤りが湧き上がります。ハマスがイスラエルの市民に対してそのような非道な行為をしているのを見ると、私たちの心には、ハマスに対する激しい憤りと怒りが起こってきます。逆に、イスラエルのミサイルがパレスティナのガザ地区に打ち込まれ、そこにいる人々の苦しみを与えているのを見ると、今度はイスラエルに対する怒りや憤りが生まれてくるのです。

 結局、戦争をしているどちらにも憤りを感じるのは、戦争をしているどちらが正しいとか正しくないということを超えて、暴力をもって問題を解決しようとし、人の命や生活をないがしろにする人間の姿に、私たち心の痛みを感じ、それが怒りや憤りになってあらわれるのだろうと思います。

 この怒りや憤りは、私たちの心の中に刻まれた神のが感じる怒りや憤りです。神様は、人間をお造りになった時、神ご自身に人間が似たものとなるようにと神のを人間にお与えになりました。ですから、私たちの心は、神の心と共感し、神の嘆きや悲しみや痛みと共振し、神の怒りや嘆きや悲しみを共に感じることができるのです。
 戦争の悲惨な現状を見るとき、私たちの心は、戦争で苦しみ逃げ惑う人々の姿、子供の姿を見て、戦争に対する激しい怒りや憤りを感じるのは、神が、その戦争の悲惨な現状を見て、そこで苦しむ人々に、深い憐みを感じておられるからです。その神の怒りや憤りに、私たちの心のあり神のが共振しているのです。そして、その神の怒りと憤りは、人々に苦しみや悲しみを与える罪に対して向けられているです。罪が人間の心を支配し、欲望に働きかけ、人に苦しみや悲しみを与えてでも、自分の願いや望みをかなえさせようとする。その人間の心を支配する罪がもたらす、人間の悲惨な現状に対して怒り、憤っておられるのです。それは、神は平和の神だからです。愛と憐みの神だからなのです。

 私たちの心は、神の心に共振し、神と共の、心を痛め、怒り、憤ることのできる心です。同時に、そしてだからこそ、単に怒りや憤りだけでのなく、その根底にある、愛と憐みにも共振しなければなりません。怒りや憤りは、罪に対して向けられるべきものであり、愛と憐れみは、人に向けられるものなのです。

 みなさん、平和のために祈りましょう。平和は神様の御心です。この世界が憎しみと残虐に支配されるのではなく、平和に満たされ、愛と恵みに満たされることを神様は願い、この世界に教会を打ち立てられたのです。ですから、私たちは平和のために祈りたいと思うのです。その平和を祈る、聖フランチェスコの祈りを記したいと思います。

聖フランチェスコの祈り

神よ、
わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。
慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、
自分を捨てて死に、
永遠のいのちをいただくのですから。

(詩の訳は女子パウロ会のホームページにあったものです)

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