23年10月第四主日礼拝説教「ナザレのイエスは神の御子である。」
旧約書:イザヤ書61章1節から3節
福音書:ヨハネによる福音書10節22節から31節
使徒書:ピリピ人への手紙2章6節から8節
今日の礼拝説教での中心となる箇所は、聖書箇所は先ほどお読みしましたヨハネによる福音書10章の22節から31節です。本当なら、イエス・キリスト様が、父なる神様と決して切り離すことができない一つの存在であり、永遠の命を与えるお方、つまり神の御子であるということ宣言なされたことが述べられている箇所です。
その冒頭の22節で「そのころ、エルサレムで宮きよめの祭が行われた。時は冬であった」とあります。「そのころ」というのは、おそらくイエス・キリスト様が、9章において生まれつき目の見えなかった人をお癒しになった出来事があった「そのころ」ということであろうと思われます。
この生まれつき目の見えなかった人をお癒しになったという癒しの物語は、その話の最後において、本当に神様の間に目の見えない者は、イエス・キリスト様に見えなかった目を癒してもらった盲人ではなく、むしろ、聖書に忠実に生きていると自負し、イスラエルの民を教え、導いているパリサイ派の人たちであったという「落ち」がつき、そして、10章の1節から21節本当に、神の民を導く「良き羊飼い」は、イエス・キリスト様であるという結末に至る見事な話の展開になっています。そのような、9章から10章21節の物語が展開した「そのころ」に「宮きよめの祭り」があったというのです。みなさん。「宮きよめの祭り」というのは、イスラエルの人々ハヌカと呼ばれる祭り、別名では光の祭りと呼ばれるお祭りで、今日でも行われています。
この宮清めの祭りの起源は、セレウコス朝・シリヤがイスラエルの民を治めていた紀元前2世紀までに遡ります。セレウコス朝・シリヤと言いますと何かアラブ民族の国のように思ってしますますが、そうではなく、マケドニアのアレキサンダー大王の末裔によって治められていたギリシャ人が支配する国家でした。そのセレウコス朝シリヤは、支配地域をギリシャ化し、ユダヤ教を迫害し、エルサレムの神殿にギリシャの神々の像を持ち込むなどしました。中でも、アンティコス・エピファネス(アンティコス4世)は、祭壇に、イスラエルの民が汚れた動物だと言って良き嫌っていた豚の血を注ぐという、まさにイスラエルの民の信仰を冒涜するようなことをしたのです。
このことを機に、イスラエルの民の中の祭司の家系であるハスモン家のマカバイが反乱を起こし、3年間の戦いの後、マカバイが神殿を取り戻し、豚の血で汚された神殿を浄めて、再び神に捧げた。このことを祝う祭りがハヌカと呼ばれる宮清めの祭りなのです。そう言ったわけで聖書協会共同訳では、この「宮きよめの祭り」を「神殿奉献記念祭」としているのです。このマカバイの物語は、アポクリファと言われる旧約聖書外典の中にマカバイ書として納められています。
この「宮清めの祭り」の「時は冬であった」とありますが、だいたいクリスマスの時期に八日間行わます。その八日間にハヌキヤーと呼ばれる特別な燭台に、私たちがクリスマスのアドベントに時期に、一週間ごとに蠟燭の火を一本ずつ増やしていくように一日に一本ずつ蝋燭の明かりを増やしていきます。しかも、このハヌキヤーというのは、特別な燭台です。ふつうはメノーラーという中央の種火となる蝋燭の両側に6本の枝をつけ、7本の蝋燭が建てられる燭台なのですが、ハヌキヤーはそのメノーラー種火の両側にある枝を一本ずつ増やした9本立ての燭台なのです。なぜ、このハヌカと呼ばれる宮清めの祭りの時に燭台の灯を増やすのかについては、色々調べてみましたが、よく分かりませんでした。祭りの日が八日間なので燭台の枝が八本なのかもしれませんが、なぜ8日間なのかがわからない。いずれにせよ、宮きよめには、普段と違う新しい灯の光が加えられるのです。
みなさん、私たちは先ほどイザヤ書の60章1節から3節までのみ言葉に耳を傾けました。そこには、次のように記されていました。
1:起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。2:見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。3:もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。
このイザヤ書は、イスラエルの民がバビロン帝国に支配される、奴隷として隷属されるという闇の時代の中にある中で、そこに神の救いの御業が現れるということを語る言葉です。バビロンの地に奴隷となり、暗い表情で希望もなく打ちひしがれている神の民に、神は、「起きよ。そして光りを放て」と言われる。それは、彼らを覆っている黒雲を打ち破って朝日のように主の光が輝き、あなた方を奴隷とする支配から解放する神の業が起こるのだ。だからあなた方は暗い顔を捨て、立ちあがって光を放て」と神は約束されるのです。
まるで、そのことを思い出させるように、このハヌカの祭りに、新しい灯の光が加えられた。セレウコス朝シリヤのよって支配され、迫害された辛い時代に救いの業がなされ、新しい時代が始まったというかのようにして、新しい光がそこに現れ出るのです。
みなさん、考えてみますとイスラエルという神の民の歴史は、他民族に支配され迫害されるということを繰り返してきた歴史です。そして、そのつど神の解放の業に与って来た。そのことをイスラエルの民は、過ぎ越しの祭りや宮きよめの祭りとして自分たちの記憶の中に刻んできたのです。
そのような宮清めの祭りを背景に、「ユダヤ人、イエスを拒絶する」という物語が始まり、その冒頭でイエス・キリスト様が、父なる神様と決して切り離すことができない一つの存在であり、永遠の命を与えるお方であるということをお語りになるのです。
この一連のスートーリは、「するとユダヤ人たちが、イエスを取り囲んで言った、「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい」という言葉から始まります。口語訳聖書では、「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか」となっていますが、聖書協会共同訳は、「いつまで私たちに気をもませるのか」と訳しています。もともとのギリシャ語を見、直訳しますと、「いつまで、私たちの魂を上げるのか」あるいは「私たちの魂を高揚させるのか」となります。
ユダヤ人は、イエス・キリスト様の言動を見ると魂の高揚を感じるというのです。心が騒ぐのです。しかし、聖書の文脈を見ますと、この魂の高揚は、決して良い意味ではの高揚ではないのではないかと思うのです。なぜならば、このユダヤ人というのは、9章で言われているユダヤ人たちであり、イエス・キリスト様を快く思っていない人たちなのです。
その人たちが「あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい」という。口語訳聖書を訳した人たちは、イエス・キリスト様に尊敬の思いを持っておられるので、丁寧な言葉遣いをしていますが、実際は、もっと荒っぽい言い方だったろうと思います。その点、聖書協会共同訳は、その歴史的文脈のニュアンスを汲み取って「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と訳しています。
メシアというのはヘブル語でギリシャ語のキリストということです。そしてその意味は、油注がれた者、油注がれた王という意味です。ですから、「あなたが王ならばはっきりそう言え」と言っているのです。これは、私の個人的な推測ですが、彼らはイエス・キリスト様が、「私は王だ」とはっきりといったならば、その言葉をもって、イエス・キリスト様をその当時イスラエルの国を支配していたローマ帝国に、「彼は自分自身を王だと言って、ローマ帝国に反逆しています」と訴え出るつもりだったのではないかと思うのです。そうすれば、イエス・キリスト様を抹殺できる。つまり、端からイエス・キリスト様を受け入れるつもりはないのです。そしてそれは、9章から一貫しているユダヤ人の姿勢だと言えます。
だからこそ、イエス・キリスト様は、そのユダヤ人たちの心を見透かすかのようにして「わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない。わたしの父の名によってしているすべてのわざが、わたしのことをあかししている」といい、ご自分を羊飼いに見立てて「あなた方は私の羊ではない」と言うのです。
これは、このヨハネによる福音書を記した著者が、10章1節から21節までで、イエス・キリスト様がなさった「よい羊飼いのたとえ」を意識していたからだろうと思われます。そして、そこにある、パリサイ派のユダヤ人たちへのイエス・キリスト様の鋭い批判を見逃さなかった。そして、その上で、ご自分が、決して神と引き離すことができない一つに結ばれた存在であり、永遠の命与えるものである」というのです。
その結果、「そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた」という事態になった。石を取り上げたということは、彼らは宗教的な理由でイエス・キリスト様に制裁を加えようとしたということです。もし、イエス・キリスト様が、私はキリスト(ヘブル語でメシア)であると宣言しますと、それは自分が王であると宣言することですから、先ほど申し上げましたように、時の支配者であるローマ帝国に訴え出て、政治的制裁を加えることができる。
しかし、イエス・キリスト様は、そこのところはユダヤ人の思惑通りにはふるまってくれないのです。しかし、だからといってご自分の立場を明らかにしないわけではありません。「あなたたちは、わたしの父の名によってしているすべてのわざをみているだろう。それのわざが、わたしがだれであるかということことをあかししているではないか」といい「わたしは、彼らに永遠の命を与えるものだ。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない」といって、「私は父と一つである」と宣言なさる。
この言葉を聞いて、ユダヤ人、主にはパリサイ派の人々だと思いますが、その人々は、イエス・キリスト様に対して、もはや政治的制裁ではなく、宗教的制裁を加えようとする。それが石を取り上げ、石を投げつけ処刑しようとする態度となって顕れるのです。みなさん、この当時のイスラエルの民には、人を処刑をする権限が与えられていませんでした。だからもし、それをすれば彼らが罰せられることになる。にもかかわらず彼らが石を取り上げたのは、もはや自制することのできないほどの憤りが彼らの心にあったからです。
それは、イエス・キリスト様が、神を父と呼び、私は神と一つだといって、ご自分が神と切っても切り離すことができない神の子であると宣言なさったからです。そして、人々の永遠の命という神の命を与えるものであると宣言なさったのです。
このお方を、キリスト教会は救い主であり、キリストすなわち油注がれた王として、2000年の教会の歴史の中で信じ受け入れ、そして告白してきた。そして、このお方の中に、罪と死が支配する「この世」という世界の中で、私たちを慰め、励まし、私たちに生きる力を与える希望の光を見てきたのです。そしてきょうもまた、そのお方が、私たちを慰め、励まし、希望を与えてくださっているのです。最後に、先ほどお読みしましたピリピ人への手紙2章6節から8節をお読みして、今日の説教を締めくくりたいと思います。
6:キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7:かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8:おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
静まりの時を持ちます。
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