私たちの人生には、他の何ものでもない慰めが必要な時期というものはあるものです。しかし、慰めの言葉ほど難しいものはありません。心に届く慰めの言葉は、頭で考えるものではないからです。むしろ、頭で考え練られて発せられた慰めの言葉は、相手の心を傷つけることすらあるのです。
私が42歳の時に甲状腺にガンが発見された時、多くの人が私と私を励まそうとしてくださり、慰めの言葉をかけてくださいました。そのなかには、励まそう、慰めようとする意図であることはわかるのですが、かえってそのかけられた言葉によって辛くなるというものもありました。もちろん、何とか慰め励まそうという気持ちはわかるのですが、その気持ちが心に届かないのです。
心に届く慰めや励ましの言葉というのは、錬られ洗練した言葉ではありません。私たちの心に直接切れ込んでくる相手の気持ちが、語られた言葉に立ち現れているならば、その言葉はどんなに拙い言葉でも慰めとなり、励ましとなるのです。いえ、なまじ言葉などなくても、本当にその人のあことを思い、その人の心に真実に共感する人の存在が、励ましとなり、慰めとなるのです。
私の尊敬する宗教哲学者のアブラハム・ヘシェルという人は、聖書の神は共感する神だと言います。私たちが苦しみ、悩み、悲しんでいるような状況にあるとき、神は、そのようなわたしたちに共感し、激しく怒られるのだというのです。しかし、なぜ神は怒られるのか?
神は、決して悩み、苦しみ、悲しんでいる者に向かって怒っているのではありません。そうではなく、私たちをそのような苦しみや、悩み、そして悲しまなければならない状況に陥れたものに対して怒られるのです。それは、私たちを深く憐れみ、愛しておられるからです。だから、その愛するものを苦しめている者に対して激しく怒るのです。怒らざるを得ないのです。だから、神は全存在をかけて怒るのです。
私たちに悲しみや苦しみをもたらし、私たちを苦悩の中に陥れるものは「罪」と呼ばれるものです。この罪が私たち人間を支配し、人間の世界に悩みや苦しみ、そして悲しみをもたらす事態を産み出す。その「罪」に対して神激しく怒り、十字架の上で命を投げ出すまで怒り、命を落としてでも、この私たちを支配する「罪」の力に打ち勝たれるのです。そこには理屈はありません。ただ私たちを憐み、愛するがゆえに、命を投げ出して迄、私たちを苦しめる「罪」の支配のもとにある私たちを救い、慰め、励まし、再び立ち上がることができるようにしようとする神の愛と憐みがあるのです。
怒りにまで至る神の深い愛。憐みの心、それが私たちの心に切れ込んでくるとき、その神の存在が私たちを慰めるのです。神の愛と憐みは理屈ではありません。神の御子イエス・キリスト様の十字架の死も、理屈で語れるものではありません。それは、私たちに理屈では語りきれない、神の愛と憐みが現れ出た神の行為なのです。
私たちを励まし慰める神の愛、そのことについて、私の友人岩本遠億牧師が語った2分半の短い聖書からのメッセージがあります。是非お聞きくださればと思います。その岩本牧師のショートメッセージは下記のアドレスで聴くことができます。アドレスをクリックし、新しく開かれた頁で▶のマークをクリックしてください。
(この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載しています)
0 件のコメント:
コメントを投稿